デヴィッド・リンチと分裂病

神経症者の言葉で喋るわれわれにとって、分裂病者とはまず第一に「われわれと言葉を共有できなくなってしまった人」である。言葉は本質的に空虚であり、われわれはその空虚さを利用できるからこそ、安心して語り合うことが出来る。しかし分裂病者にとって、言葉は質量と効果を伴う物質そのものだ。語り合うためではなく、世界を所有するための、このうえなくリアルな道具なのだ。それゆえ、そこからさまざまな幻覚や妄想が生成してくる。たとえば「AはAだ」という表現は、われわれにとってはトートロジーだが、分裂病者にとっては因果律だ。彼らは幻想を見ることはない。むしろ幻想を生きるのだ。そのとき文体は形式となり、形式は意味となるだろう。もっとも幸福な分裂気質者であるリンチは、あたかも症状のように創造をもたらす。そう、彼はひたすら反復するのだ。『ストレート・ストーリー』のいびつさを。そして『マルホランド・ドライブ』のおそるべきナイーブさを。つくりもののコマドリは、つくりものの幸福のシンボルではない。幸福な朝の食卓こそが、にせコマドリの象徴なのだ。『A=A』の自同律が破綻した世界では、あらゆることが同時に起こる。ひとたびその論理を受け容れたなら、あなたはリンチ映画の意外な素朴さに気づくことになるだろう。