ねじまき鳥クロニクル

 「ねじまき鳥」は、ぼくのハルキ観を決定的に変えた。過去の作品がすべて助走か習作にみえるほど、それは異質な作品だった。もちろんそれまでの作品もおおむね読んではいたのだが、少なくとも80年代までの村上春樹のことを、ぼくはあんまり大切に思っていなかったのだ。
 
 なるほど、たいそう洗練されてはいる。でも、からっぽさをどう飾ってみても、結局からっぽなままなんだよね。それが80年代までの、ぼくのハルキ観だった。

 だから本作を文庫ではじめて読んだときには、本当に驚いた。そう、ぼくは思い知らされたのだ。作家の才能とは、鍛錬によってゆっくりと成長し、時にみごとな成熟にいたる力でもあることを。以来ぼくは臆面もなく、むしろ悦びをもって春樹ファンへと転向した。

 この作品で、春樹の比喩はいつにも増して冴えわたり、「悪」は不可解なまでに残酷な魅力をたたえ、「善」は複雑な陰影を帯びて輝いている。

 しかしそれ以上に決定的なのは、文章のいたるところで、まぎれもなくふれる「書かされている」手触りだ。それではいったい何が、誰がこれを書かせているのか。「死」?「現実」?「歴史」?でも、ねえ、それが簡単に言えるくらいなら、そもそもぼくらは小説なんか読まない。そうじゃないか?