邦画の“暗さ”について

 映画「グレムリン」を観て、アメリカ人には「雪」が描けないと喝破したのは、たしか蓮実重彦だった。爾来、注意してみていると、たしかにハリウッド映画の雪は雪らしくない。「ダイ・ハード2」(好きですけどね)だって、かんじんの雪だけは、なんか龍角散みたいでろくなもんじゃなかった。ずっと低予算の伊丹映画「マルサの女」冒頭シーンは、メイキングによれば真夏に撮影されているのだけれど、こちらの雪は実に真に迫ってみえる。一体この差は何なのだろう。そういえば西洋人には蛇の絵が描けないと指摘する荒俣宏にならって、アメリカ人には美少女キャラが描けないと指摘したのはほかならぬこの私だが、だからといって、なにも日本人の認知表現能力の優位を誇りたいわけではない。
 ずっと奇怪に感じていたことがある。邦画というジャンルにつきまとう不自由さだ。まるである種のリミッターがかかっているかのように、邦画はその限界において均質である。たとえば女優。今の日本にろくな女優がいないことは、まあわれわれ男子の責任でもあるから仕方ないとしても、テレビジョン或るいは邦画のスクリーン上には、常に少女か母か娼婦しかいないのは、これは一体どうしたわけか。
 もちろんこんなのは、「限界」のほんの一例である。最大の問題は、誰も言わないから私があえて言うが、邦画の「暗さ」である。といっても、テーマのことではない。ひところ邦画が暗いくらいと言われた反動のように、頑張ってエンターテインメントしている作品はむしろ増えている。私が不満なのは、「画面の暗さ」のほうだ。とりわけ、ロードショー公開されるような「大作」の画面は、なぜか例外なく暗い。念のために最近の話題作を一通りチェックしてみた。「魔界転生」「リターナー」「命」「化粧師」「模倣犯」「サトラレ」「バトルロワイヤル」「ホワイトアウト」「鉄道員」…いやはや驚いた。これ全部、雁首そろえて討ち死にである。ウソだと思うなら観てみればいい、暗いから。
 ひとくちに「暗い」と言っても、単純ではない。要するに、影が汚いのだ。光と影のコントラストが曖昧で、しばしば主要な人物の顔すらも、すっぽり影に入ってしまう。こんなことはハリウッド映画ではあり得ないが、だからといって、むろん予算の問題ではない。低予算の快作を連発する三池崇史監督の作品や、やはり低予算の北野武作品などは、かなり明るい。余談ながら、邦画の陰影礼賛ぶりを逆手にとり、ホラー化することで批評してみせたのが黒沢清とみるのは、ちと穿ちすぎだろうか。
 門外漢ゆえ、テクニカルなことはわからない。しかし私はこの件に関して、さる筋から重大な証言を得ている。それによると、どうやら邦画の撮影現場における権力構造が問題らしい。つまり、照明や撮影をつかさどる職人たちの発言権が強く、彼らの頑迷固陋な慣習こそが、あの暗さの原因だというのだ。なるほど、ならば低予算映画の画面のほうが明るいことも納得がいく。マイナーな作品ほど、そうした因習からは自由だからね。
 私は映画が好きだから、提灯記事も書くが無理難題もいう。とにかく王様は裸で邦画は暗いのだ。これに関しては、いかなる現場の事情も認めない。因習説が本当なら、さっさと世代交代(ルビ:リセット)すべし。暗い邦画のおかげで日本は、アニメ立国になるほかはなかったではないか。というわけで、次代をになう「明るい大作」の希望を、角川映画ならぬ幻冬舎映画などにつなぐのはどうか、などと私は本気で夢想しはじめている。
 斎藤環 en-taxi 2003 summer