西山明 信田さよ子著『家族再生』小学館

 いまや至る所で自明性が破綻しつつある。典型は「なぜ人を殺してはいけないのか?」という問いかけだろう。この質問を悪い冗談と笑って見過ごすうちに、「人を殺すとはどういうことか」という疑問にかられた少年が本当に殺人をおかしてしまった。もはや「国家」「愛」「父性」などといった自明の前提を強化する方向に未来はない。むしろわれわれは、自明とされてきた概念の有効性を問い直すことから再出発すべきなのではないか。そして本書で問われるものは、まさに「家族」という神話の自明性にほかならない。  

 本書に収められているのは、共同通信の記者で、著書「アダルトチルドレン(以下AC)」でも知られる西山明氏と、嗜癖研究やACの紹介者として精力的に活動を続けている原宿カウンセリングセンター所長、信田さよ子氏との対談である。対談は本年二月から六月にかけて行われた。ちょうどさまざまな少年事件が立て続けに報道され、また「ひきこもり」という耳慣れない言葉が広く知られるようになった時期と重なっている。  

 私はこの本の内容に、必ずしも全面的に賛同するものではない。むしろ思春期・青年期の臨床に関わるものとして、いくつかの点で違和感を感じたこともあえて否定しない。例えば私自身、ACというアイディアの有効性は自分なりに理解はしているが、診察室に入るなり「私はACなんです!」と主張しはじめるタイプの人たちにとっては、この概念はもはや救済にならないと考えている。「ひきこもり」に関しても、家から出すのが親の愛、という下りに関しては、やや拙速な断定と言わざるを得ない。そもそも私は、つねに精神分析から発想し行動する立場をとっている。それゆえ心に闇はなく、原因追究など無意味、とする信田さんの発言には、もちろん全面的に与するわけにはいかないのだ。  

 しかし、である。これほどの立場の違いにも関わらず、こと臨床に関しては、本書の内容にうなずかされたり、気づかされたりした点があまりにも多い。これは一体どうしたことなのか。  

 本書を読む際には「自明性」と「システム」という言葉を補足しつつ読むと理解が深まると思う。冒頭で述べたように、現代社会においてはあらゆる自明の構造が根本から問い直され、あるいは崩壊の危機にさらされている。これは精神疾患もそうなので、確かに単純な原因−結果(症状)で説明が付くような病気は減ってきた。変わって目立つようになったのは、まさに嗜癖に代表されるようなシステム的な病理である。この病理において、もはや原因は重要ではない。その病理を進行させ、さらには固定させるシステムの作動のほうに問題がある。それゆえ、私たち臨床家が考えるべきなのは、もはや原因の究明ではない。いかにして病理的なシステムの作動を止めるか、それだけなのだ。私の立場から言えば「ひきこもり」はまさにシステムの病理であり、家庭内暴力もまたそうだ。  

 家庭内暴力からは逃げよ。たったこれだけの「常識」を口にする勇気を専門家が持ち得なかったために、1977年の開成高校生殺人事件以来、二〇数年以上も家庭内暴力に起因する親殺し・子殺しが続いている。この結論は当たり前のようで、それゆえに繰り返し強調されなければならない。親は(あるいは妻は)家庭内暴力から「逃げてもよい」のではない。逃げなければならないのだ。信田さんは嗜癖臨床の立場から、そして私は精神分析と立場から同じ問題に取り組み、まったく同じ結論を共有するに至っている。そのことからも、この結論の正しさはすでに保証済みだ。だからもう一度言う。暴力からは逃げよ。これのみが臨床的な真実であり、あなたはもう迷う必要はないのだ。  

 「共依存」や「虐待」といったシステムの暴走を、距離と言葉(これは、ほとんど同じことだ)によって断ち切ること。われわれは今や、その方法論を鍛えなければならない。信田さんと同様、家族の演技指導の必要性を痛感している私にとって、「異交通の家族」とか「ふりをする」やさしさという言葉は大きなヒントとなった。お返しに私は愛好するカート・ヴォネガットからの引用、「愛は負けても親切は勝つ」という言葉をお贈りしよう。そう、もはやシステムの破壊は暴力では達成され得ない。それはあくまでもタフな「やさしさ」と「親切」によってこそ、実現されるべきなのだ。(斎藤環