Graphic Art

 「視覚文化」の一翼を担うグラフィック・アート。それは現代における視覚表現の創造が、どのような欲望と統制のもとでなされているかを徴候的に指し示す。
 近代の芸術は、絵画に限らず単一のカメラアイ(東浩紀)を要請した。ならば、ポストモダンの視覚芸術を特徴づけるのは、カメラアイの喪失である。ただし、この指摘には注釈が必要だ。それは、カメラアイとは作品をみる視線のことでもある、ということだ。
 みる側、みられる側という静的な関係性。われわれはまたしても、それが喪失されつつあるまさにその時点において、テクノロジーを媒介としてその存在を事後的に与えられたのではなかったか。そう、写真という複製技術の登場が「アウラ」を発見させたように。
 作品をみることが出来る特権的な主体の視線、それは言うなれば「所有の視線」である。しかし、複製技術と通信技術の端的な発達によって、オリジナルのアウラが果てしなく希薄化しつつある現在、作品と対峙する側の身振りも、おのずから異なったものとなる。作品を所有し解釈しようとする視線は、いまや相互に生成をもたらすコミュニカティブな視線へと、徐々に変質しようとしている。それはつまり、「作品を持つこと」から「作品になる」ことへの変化なのだ。
 テクノロジーの介在はまた、作品の意味が決定づけられる特権的瞬間−カイロス時間(キールホルツ/エランベルジュ)−を後退させた。変わって前景化するのは、「意味」が連続性のコンテクストにおいて、あたかも単一のグルーヴのように生成する時間性である。再現不可能なリアルタイムのハプニングより、反復可能なシリアル・タイムのグルーヴこそが、作り手−受け手の関係性を連続的に脱臼させてゆく。
 グルーヴはさらに、その「せき立て(ラカン)」の機能によって、モチーフとコンセプトを出し抜きながら大量の作品を生み出すだろう。「持つ」から「なる」への変化はここでもあきらかだ。誰も彼らの作品を所有し尽くすことなど出来ない。しかし、それゆえに誰もが作品を所有することができる。美術館やキャンバスにおさまり切れず、地下鉄からTシャツ、ゲームソフトといった場所に至るまで、それはあらゆる場所にあふれ出し遍在し、場所のアウラを身にまといつつ発光する。作品は見出され、複製と引用を被りながらリズミックに生成し続ける。「なる」ことのみが唯一の所有の身振りであるということ。こうしたコミック・マーケット的な原理が、いまや標準化されつつあるのではないか。
 なにもグラフィティ・アーティストに限ったことではないが、彼らが何らかの形で「文字」をモチーフに取り入れる傾向は興味深い。「明鏡止水」は漢字を導入し、ネンドグラフィックスはフォント・デザインを手がける。テキストとイメージの奔放な交錯は、象徴界なきポストモダン空間の特質と見なされるべきだろうか。おそらく、そうではない。それは「文字」の相貌化なのである。そこでは文字通り文字(charactor)が人格(charactor)に等置されるのだ。
 たとえば高機能自閉症の事例などが、こうした表現を試みることが知られている。彼らはなによりも、みずからが意味において−とりわけ性的意味において−主体化されることを恐れる。彼らは自らをおびやかさない対象を相貌化し、そちらへと向けて同一化を試みるのだ。それはおそらく、彼らなりの主体化の身振りでもあるのだろう。
 文字を描き続けるグラフィック・アーチストたちもまた、相貌化された文字をみずからの署名にしようと試みているのではないか。意味と署名が等置される場所。例えば村上隆らの一連の作品もまた、アニメのセクシュアリティという「文字」を独自に相貌化してみせるための試みではなかったか。このような「署名への欲望」こそが、グラフィックなグルーヴを継続させる当のものなのだ。

(SV 2000.6)