今 敏監督とは面識がありました。
 2003年の暮れにWOWWOWで放映された「最新オリジナルアニメ情報〜『妄想代理人』のすべて…は教えられない〜」での対談でした。
 同世代の気楽さで、ついいろいろとぶしつけな質問をしてしまいましたが、監督はユーモアをまじえてひとつひとつ、丁寧に答えてくれました。思えばあの時からすでにワーカホリックで生き急いでおられる印象がありましたが……それにしても、まだこれからという時に、本当に残念です。
 
 ご冥福をお祈りします。

 以下の文章は「妄想代理人」DVDの解説原稿です。


物語職人・今 敏

 今敏は僕の同世代人だ。このひとの描く世界は、斬新なのに身体にぴったり合った服のように居心地がいい。それは今さんの資質にも関係がある。彼の出自は漫画家だ。ということは、世間の誤解とはことなり「オタク」よりも「サブカル」に近いということだ。だから今さんの発想は、僕のサブカルのツボをノスタルジーとは別の方面から刺激してくれる。
 先日ある番組で今さんとお話をする機会があった。その席で、僕は聞かずにはいられなかった。「『千年女優』って、戸川純の『遅咲きガール』、入ってますよね」と。もう誰も知らないだろうが、この中野裕之が監督した傑作PVは、映画女優に扮した戸川純が、出演した架空の映画をワンカットずつつなぎあわせたという設定で、そのコスプレ七変化ぶりがこのうえなく楽しかったものだ。だから、このぶしつけな質問に、今さんがあっさり「そうですよ」と答えてくれた瞬間に、僕は心から納得した。今さんは僕の同時代人なのだ、と。いや、そもそも平沢進を音楽に起用している時点で、とうに気付くべきだったのだ。互いにP−MODEL以来のファンであることを確認し合うまでもなかっただろう。
 今さんの映画は、リアルタッチの絵柄を活かして、現実と幻想の入れ子構造が巧みに描かれている。なんでこれをアニメで?とよく聞かれるそうだが、アニメだからこそ、現実と幻想が継ぎ目なくブレンドできるはずではないか。別の場所でも書いたのだが、アニメの快楽とは「媒介されること」の快楽でもある。現実そっくりの絵が、現実とは別の文法で動くから楽しいのだ。だからこそ、今さんの映画は、アニメじゃなくてはダメなのだ。
 しかし、今敏のアニメは、いかにも「アニメ的」ではない。例えば今さんは、まるで時流に逆らうかのように、キャラクターを作品の中心におこうとはしない。昨今の萌えキャラのアニメ作品ばかりになじんだ目には、これもまた新鮮な姿勢にみえる。なにせ宮崎駿ですら、萌えの磁場から自由とは言えない時代だ。しかし今さんは、萌えよりも物語を描きたいと明言する。この言葉は、僕にはひどく新鮮に響いた。
 良く動くキャラクターよりも、良く動く物語を。今さんの描くキャラクター達は、成長し、年を取る。そもそも萌えキャラというものは、年を取らないし、成長もしないのがお約束だ。あの可憐な千年女優が、おそらく「萌え」とは無縁なのは、老年の藤原千代子がいきなり登場するからだろう。加齢はあきらかに、萌えの成立を阻害する。今さんは萌えのリアリティを犠牲にして、リアルな物語時間を発動させようとする。
 その姿勢は最新作『東京ゴッドファーザーズ』においても、ますます健在だ。ジョン・フォードの『三人の名付け親』に由来するタイトルを持つ本作は、明晰な細部とウェルメイドとしかいいようのない物語性を兼ね備えた傑作だった。
 今さんは、変化や成長も含めた「物語」を通じて、ひとつのキャラクターをリアルに描き出す。そういえば今さんは、どこかのインタビューで、ジョージ・ロイ・ヒル監督の『スローターハウス5』の名前を出していた。ここで僕は、ふたたび膝を打ったものだ。過去も未来も現在も、すべては決定済みで同時に眺め渡すことができるトラルファマドール星人の悲喜劇は、「歴史の終わり」以降を生きる僕たちのそれを先取りしている。だからこそ今さんは、歴史(=物語)の終焉に抵抗するためのワクチンとして、ただ黙々と、僕たちにリアルな物語をつきつけ続けてくれるに違いない。
 今さんがはじめて手がけるTVシリーズ作品「妄想代理人」も、どうやら主役は「物語」のようだ。その恐ろしいほど完璧な絵コンテを眺めながら、僕はあらためて今敏という同時代の物語職人に、畏敬と親しみの入り交じった期待を覚えている。それにしても、どうやら今さんは僕と同じくワーカホリックの体質みたいだ。新作が次々とみられるのは嬉しい限りだけれど、くれぐれも身体には気を付けて。