正しきイマージュの系統発生*1

 なぜ「人体」か?
 生物学者・エルンスト・ヘッケル(1834~1919)による、「個体発生は系統発生を繰り返す」というテーゼは、たとえば解剖学者・三木成夫による「おもかげの発生学」として、このうえなく優雅に変奏された。子宮の中の胎児の顔は、はじめフカなどの軟骨魚類をおもわせ、ついでトカゲなどの爬虫類の顔となり、そこから徐々に哺乳類へと向かっていく。私は医学生時代、生前の三木の講義を、あの「ねじれの美学」の極みとも言うべき美しいシェーマのプリントとともに聴講するという僥倖に恵まれた。自分の大学の教授の名前もろくに覚えなかった私だが、あの授業の印象だけは、いまだに鮮烈だ。

 こんな話からはじめたのは、加藤泉の作品が、どこかそうした発生学的原理をイマージュとして体現しているように思われたからだ。誰もが感ずることではあろうが、やはり最近作は、胎児や赤ん坊を連想させずにはおかない。巨大な頭部、矮小な体、まだものをみることのない離れた両眼、ぽっこりと突き出たおなか、そしてあたかも、身体を覆う羊膜のようにもみえる二重の透明な輪郭。ただし、あくまでも無表情の彼らに対して、不気味さや悲哀感をつい感じてしまったとしても、それはむしろ感情の誤作動である可能性が高い。この種の誤作動の存在はむしろ、われわれが「人体」を前にしたとき、けっして無関心ではいられない事実を証し立てるだけだ。


 そう、画家・加藤泉のモチーフは、ほとんど常に「人体」である。これは、いささかも奇妙なことではない。そもそも私の考えでは、「絵画」とは常に、「顔」を、「相貌」を描くために存在する技術でしかないからだ。写真と複製技術以降の時代に、あるいはまたコンピューター・グラフィックス以降の時代にあって、なおも絵画作品を作り続ける意味があるとすれば、「絵画」の使命はそこにしかない。私だけがそう思うのではない。例えば、あきらかに複製技術時代の画家であるフランシス・ベーコンは、デヴィッド・シルベスターとのインタビューで、次のように発言している。

 「芸術とは生き物に対するこだわりであり、結局、私たちは人間ですから最もこだわるのは人間ということになります。次が動物で、最後が風景でしょう」(デイヴィッド・シルヴェスター『肉への慈悲』筑摩書房 69頁)そしてベーコンは、絵画のヒエラルキーのトップに、些かのためらいもなしに「肖像画」を置くのだ。

 人間の皮膚を描くのに、サイの皮膚の質感を手がかりにし、モネの日没のような口を描くこと、あるいは顔をサハラ砂漠にすることを切望するこの画家は、従来とはまた異なった意味における「ヒューマニスト」だ。そう、加藤泉がまさにそうであるように。以下、ベーコンのインタビューをひとつの参照枠として、加藤の絵画が何を目指しているかについて考えてみたい。


 「物語」からの逃走

 今回の私によるインタビューからも、画家としての加藤とベーコンとの近縁性はあきらかだ。もちろん両者の絵には、ひどく隔たりがあると言うこともできる。たとえばベーコンが、肉の池から浮上する人間の輪郭を描こうとしたとすれば、加藤の絵は、もうすこし淡泊なたたずまいを持っている。それはいわば、羊水の中におぼろに透視される、人間の原型のようなものだ。しかし、みかけがいかに隔たっていようとも、彼らの目的はおそらく一つだ。それは「具象的に描いたもので神経をより強烈に刺激しようという試み」(前掲書12頁)なのである。

 ところで、形態としての人間への興味という問題は、きわめて困難な問いかけをはらんでいる。

 「ひとのかたち」を描くこと、それはほとんどの人を、その自覚なしに記号の営みへと拉致することにほかならない。では、それはいかなる記号なのか。人型とは本来、「関係の記号」であり、「心理の記号」である。たとえば交通標識、トイレ表示などに代表されるイコンとしての人型は、見るものと場所との関係性を規定している。あるいは漫画やアニメに描かれる人型は、しばしば内面が投影された記号としても機能する。だから、複数の人型を描いてしまうと、そこに「内面」と「関係」の相互作用が生まれ、あのベーコンが忌み嫌う「物語」が自動的に発生してしまうのだ。

 この種の「物語」からの逃走という意図についても、加藤はベーコンに、完全に同意するだろう。物語を回避しつつ絵画の強度を維持するためには、「内面」と「関係」の双方を画面から徹底的に排除するほかはない。それは意味からの逃走でもある。意味と強度は、表現においては相互排除的な関係にあるため、意味からの距離が遠いほど、絵画の強度は高められるだろう。ただし、単に「無意味」であるだけでは足りない。重要なのは、視線を誘惑しつつ無意味であること、これである。観る者と作品との間に、このような、一種ダブルバインディングな磁場が成立したとき、絵画の強度は最も高められるだろう。このとき「ひとのかたち」は、強力な視線誘導装置として機能するのだ。

 そして、いかなる技法によってであれ、高い強度を獲得し得た絵こそが、「正しい絵」なのだ。彼らはしばしば、ほとんど完成したようにみえる作品を惜しげもなく破棄してしまう。「正しさ」はひとつなのだから、これは仕方のないことだ。

 「正しさ」の系統発生

 ところで、「正しさ」を判定できるのは、画家自身でしかない。「正しさ」は伝達できない。なぜならそれは「曖昧さを併せもっている正確さ」(前掲書14頁)なのだから。それゆえ、その正確さに至るべく、彼らがとった手法までが共通しているのは、決して偶然ではない。
 インタビュー中でも語られているように、加藤は絵画の制作に当たって、下書きをはじめ、メモや設計図的なものをほとんど用いない。むしろキャンバスにいきなり絵具を塗りつけ、それを反復しつつ、描かれたものと対話を繰り返しながら、徐々に「正しさ」のほうへと向かっていく。そこには絵画の対象も、画家の内面や心象も、美術業界内のコンセプチュアルな文脈も介入する余地はない。
 要するに加藤は、なにものかの代理としての絵画、すなわち表象物としての絵画を否定するところから出発するのだ。その意味で「ぼくと絵が対等にある」という加藤の言葉は、このうえなく重要なものとなる。この対等性があってはじめて、作品との対話が成立し、絵画それ自体に正しく語らせることが可能となるからだ。この種の対話の経験については、ベーコンも次のように発言している。
 「描きながら、絵がどうなっていくのかわからないことが、実はよくあります。そのほうが、自分で意図していたよりずっといいものになるのです」(前掲書18頁)
 加藤もベーコン同様、この作業を無意識に行いながら、同時に批評能力を働かせているはずだ。では、それはなんのための「批評」か? そう、「イラストレーション」の徴候を察知するための批評である。ベーコンは、絵画がイラストレーションに堕してしまうことを、徹底的に回避しようとする。そのための方法論を、彼は明瞭には言語化し得ていないが、いくつかの重大なヒントは口にしている。
 「洗練された単純さを備えた強烈さが必要なんです」(前掲書190頁)。
 そして、まさに加藤の絵こそは、この種の「強烈なまでの単純さ」という域に至りつつあるのではないか。ここに至って断言するが、加藤は胎児や赤ん坊を決して意識的にモチーフに選ぶわけではない。「ひとのかたち」から、内面性と物語性を徹底的にそぎ落としてたどり着いたイマージュが、たまたま胎児のように見えるだけなのだ。ここで私が「イマージュ」の一語に、ベルクソン的な意味での物質性を意図しつつ、「イメージ」との峻別を試みていることを、蛇足ながら注釈しておく。水戸芸術館で開催中の「lonely planet 孤独な惑星」展では、初めての試みとして加藤の彫刻作品が展示されているが、この巨大でユーモラスな姿勢をとったいきものは、もはや胎児よりは赤ん坊に似て見える。
 初期作品にあっては作家自ら「記号的」と呼ぶような人型(まさに「マルにテンテン」であり、昆虫にも見える)が、時を経て胎児の姿に接近し、やがて赤ん坊に近付いていく。この変化が、画家自身の変化と平行して起こったこと、それがある種の「正しさ」の追求から必然的にもたらされたものであることを考えるとき、私はそこに「イマージュの系統発生」ともいうべき過程をみてとらずにはいられない。
 それゆえ加藤が、一度はアウトサイダーたちの絵に惹かれ、後にそれを否定的にみるようになっていくことも、イマージュを追求していく過程にあっては正しい選択なのである。加藤によるアウトサイダーの定義は簡潔だ。それは「作品との関係性が発展しない作家」のことである。この洞察は驚くべきものだ。確かに、とりわけ精神障害を持つアウトサイダーたちの絵は、その意味においては「発展」がない。なぜか。それは彼らの作品が、常にすでに「正しいイマージュ」であるからだ。すでに正しいものは批評することができない。そして「批評」の欠けた場所にあっては、いかなる「発展」も起こらない。
 だから私は、ベーコンが次のように断言するとき、それがそのまま画家・加藤泉への賞賛と激励の言葉になりうると信ずるものである。
 「画家はますます独創的にならなくてはいけません(中略)新たなリアリズムを創造して、神経組織に直接伝わるようなリアリティーを表現するべきなのです」(前掲書192頁)