「王と鳥」の垂直性

 …宮崎駿の指摘は、風刺についていささかも触れていないにもかかわらず、例によって巧まざる鋭利さを発揮する。彼は言うのだ。「垂直空間の使い方ならポール・グリモーの『王と鳥』をあげないわけにはいきません」「それ以前は水平方向の動きしかありませんでした。物語がホンモノになるには、映画の中できちんとした上昇の動きが必要」と。
 さて、公開が私の生まれる前である以上、私にとって本作を見ることが、なかば『カリ城』の細部を至る所に再発見する過程にあるのは避けられない。城の造形や追跡のシークエンス、あるいは例の不可解な落とし穴(同じ作品にそのパロディまでもが描かれる!)から巨大ロボットに至るまで、みやすい類似点は数多い。しかし個人的には、最高層の王の寝室にいたるエレベーターの運動が重要である。
 おそらくは油圧式のエレベーターのかごが、途中の階でシャフトからシャフトへ、クレーン状の機械で移し替えられる。この、物語上はさして必然性のない無駄な運動は、アニメがアニメであるほかはないもの悲しさをはらんでいる。同様のもの悲しさの痕跡は、宮崎アニメの随所に見出すことができるだろう。孤独な王の果てしない上昇。結末の、瓦礫と化した城と対比される時、この上昇運動こそが、まさに入念に描かれるべき「垂直性」の表現であったことに改めて気づかされる。
 (中略)
 それゆえ本作については、独立した作品として以上に、作家であるポール・グリモーの異様な執念とともに理解される必要があるだろう。制作期間の遅延、不本意な公開、そして訴訟沙汰に至った経緯は周知の通りだ。グリモーはフィルムを買い戻し、納得の行くまで手を入れ、タイトルも変更して一九七九年に公開に至る。すでにグリモーは七十五歳、プレヴェールは二年前に逝き、最初の(不本意な)公開からは二十七年、構想がはじまってから実に三十四年の歳月が流れていた。この執念は何を意味するか。
 グリモーの「風刺精神」には、時の政権のような具体的な対象が存在しない。彼が作り出したのは、「風刺の構造」だった。感情移入可能な暴君、匿名的で煽動されやすい民衆、時に二枚舌を巧みにあやつる自由の戦士(=鳥)、こうした両義性の巧みな導入によって、物語は勧善懲悪の素朴さを免れる。風刺画では説得的に描き得ない両義性を可能にしたのが、アニメーションの運動が浮き彫りにする「垂直性」であったとすれば。宮崎駿の正しい直感は、おそらくはグリモーへの、垂直性を介しての転移によってもたらされたのではなかったか。
 転移、そう、問題は「転移」なのだ。そこでは何が転移しているのか? 風刺精神? 絵の中の少女に対する「萌え」? おそらく、それだけではない。その構造ゆえに王すらも脅かす「垂直性」に、飛翔をはじめとする「運動の倫理」をもって対峙し続けること。この緊張関係は、いたるところに直交する対立軸をもたらすだろう。そう、「システム」には「構造」を、富には性愛を、権力には物語を、論理には隠喩をもって対峙すること。ここでは、いずれの軸にも含まれる両義性こそが重要なのだ。
 両義性をもつ二つの軸が物語を生み出す時、そこには半ば必然的に「風刺」の契機が孕まれることになる。「風刺の構造」とはそういう意味だ。『王と鳥』から宮崎駿はおそらく、「垂直性と運動」という対比の構図を転移として受け取った。この視点から見直す時、少なくとも『カリ城』から『ハウル』に至る一連の「宮崎アニメ」が、ことごとく風刺の構造をも兼ね備えていることが見えてくる。『王と鳥』を見るということは、風刺作家としての宮崎駿を再発見することでもあるのだ。
 ただし、そのさい決して忘れるべきでないことがひとつある。風刺の光源が、常にわれわれの背後にあるということ。この自覚なしには、いかなる風刺も浅いパロディに堕すほかはないからだ。

(SV2006.8)