ヘンリー・ダーガーのファリック・ガールズ

(『ら・るな』創刊号、1994年)


ヘンリー・ダーガーのファリック・ガールズ

 昨年(1993年)10月、「パラレル・ヴィジョン−20世紀美術とアウトサイダー・アート」展が世田谷美術館で開催された。ぼくもひさしぶりに美術館に足を運び、名高いプリンツ・ホルン・コレクションや、ゾンネンシュターンなどの有名な作品群を堪能してきた。

 とりわけぼくがもっとも惹かれ、いくぶん複雑な感動をおぼえもした作品は、大作の片隅にひっそりと展示されていた。巻物のように長く粗末な紙の両面に、一見コミックの模写を思わせる、ちょっとデッサンのぎこちない少女達の物語が描かれていた。

 まず眼をひいたのはその物語の異様な題材である。あどけない少女達と大人の血なまぐさい戦争。おびただしい数の少女達が兵士たちに銃剣で突かれ、サーベルで腹をさかれ、首を締められ、磔にされて死んで行く。もちろん少女達も虐殺される一方ではない。軍馬を駆り手榴弾を投げ、勇敢に反撃を続ける。そして奇妙なことに、少女たちは裸になるとみな少年のようなペニスをもっている(図版参照)。

 一見いかにも素人臭いそれらの絵はしかし、水彩の淡色にただならぬ情念の強度をはらんで、観るものの大脳辺縁系あたりを直撃してくる。立ち去りがたい思いで絵の周囲を徘徊しながら、なぜかぼくは、わずかに後ろめたいような思いに駆られていた。

 以来ぼくは折にふれてその画家の残した謎について考えることになる。「アウトサイダー」ゆえの徹底した孤独と無垢の名において、すでに伝説のなかにある画家。妄想をつむぐように厖大な記述を続け、みずからの見事な挿画で物語を受肉させた作家。

 彼の名をヘンリー・ダーガーという。

 ヘンリー・ダーガー(1892-1973)の生涯について知られている事実は、概略次の通りである。シカゴに生まれ4才で母親に死別、8才のときに父親によって(障害がなかったにもかかわらず)知的障害児の施設に送られ、16歳で脱走した。その後病院の掃除夫(守衛ともいわれる)の仕事に就き、71歳で足の障害から社会保障を受けて生活するようになるまで、さまざまな病院で雑役夫の仕事を続けた。

 ダーガーは40歳から40年間、病院の雑役を辛抱強くこなしながら、ひと部屋の貸間で孤独な生活を続けた。仕事から帰って部屋にこもり、紙とペンで世界を創造するひとときだけが彼にとっての真実の時間だった。彼の家主であるネイサン・ラーナーは、ダーガーの死後、彼が蒐集した雑誌やがらくたの山の中に厖大な作品群を発見し、世に紹介するきっかけをつくった。

 彼の主要な著作は「非現実の王国、あるいはいわゆる非現実の王国におけるヴィヴィアン・ガールズの物語、あるいはグランデリニアン大戦争、あるいは子供奴隷の反乱に起因するグラムディコ対アビエニアン戦争」と題されている。薄手の用紙にびっしりタイプで打たれた物語は、15巻1万5000ページにも及ぶ。この作品はダーガーが24歳の時から81歳で老人ホームに収容されるまで書き続けられたという。

 物語は聖なる奴隷少女たちの軍隊と、グランディニア王国の支配権を強奪した凶悪な奴隷主の男との戦いの歴史である。ヒロインである7人のヴィヴィアン・ガールズは、みなブロンドの美少女で、敬虔なクリスチャンであり、明晰な戦略家にして射撃の名手でもある。彼女達は神に見守られつつ巨大な龍を従えて戦いに赴き、たびたび危機に陥りながらも、常に無傷で生還する。

 それにしてもダーガーの絵のどうにも抗しがたい魅力は、何によるものだろうか。もちろん彼自身の生涯の物語が、その大きな要素のひとつではあるだろう。しかしぼくは、なによりもまず命がけで戦う少女達、ペニスを持つ少女達の魅力に惹きつけられはしなかったか。ぼくがあのとき作品の前で感じたうしろめたさは、ダーガーが好きだと告白することで、ぼく自身の何かがを暴かれることへの畏れではなかっただろうか。

 何故ダーガーは少女達にペニスを描き加えたのか。

 ダーガーは施設で育ち生涯女性を知らず、孤独であったために性知識が欠落していた、それゆえに少女にペニスを描いたというのが研究者の定説であるらしい。しかし正常な知能を持ちながら、身体的性差に関しては無知のままでいることは、ほとんど原理的に不可能ではないか。性差の無知という土壌のうえに、いかなる欲望が可能だというのか。ぼくは精神科医として、というよりはむしろ常識的にそれを疑わざるをえない。もちろんダーガーは少女がペニスを持たないことを知っていたし、それゆえにこそ意図的に少女達にペニスを描き加えたのだ。

 これらペニスを持つ少女を、試みに phallic girl ファリック・ガールと、そっと呼んでみることにしよう。これはもちろん「ファリック・マザー(ペニスをもつ母親)」からのいささか安易な連想ではある。しかしそう名付けてみることによって、ファリック・ガールズの系譜といったものが見えてくるのではないか。彼女達は姿形を変えて、いまなお健在である。それもほかならぬこの国で。

 ファリック・ガールズはどこにいるか。それは巨大な昆虫を愛でる風の谷の王女かもしれない。ろくでなしの父親のためにホルモンを焼く大阪の少女かもしれない。またすでにダーガーとの類似点を指摘されている、月の代理をつとめる五人のセーラー服少女達かもしれない。彼女らはしばしばファリックな力で「世界」の秩序を司る。

 これらは「戦う少女」のイコンのなかでも突出したものを挙げたにすぎない。この種のイコン自体はアニメーションやコミック、ビデオゲームの世界でひとつのジャンルを形成しうるほどにありふれたものだ。現実の異性よりも二次元上にあらわれる異性を愛好するという青少年が、とりわけこうしたイコンに群がる。それもすでにぼくらの見慣れた風景の一つだ。

 ところでどういうわけか、欧米圏では「戦う女」=ファリック・ウーマンは映画などでよく見かけるのに、ファリック・ガールはいっこうに見あたらない。これは何故だろうか。ファリック・ウーマンはフェミニズムなどの政治的文脈において許容されうるが、ファリック・ガールのほうは倒錯的欲望の産物であるために排除されるのだろうか。

 ラカン精神科医である藤田博史は、「不思議の国のアリス」が無自覚にもてはやされるこの国の現状を批判しつつ、日本語を話す主体は倒錯に親和性が高いと指摘する。ファリック・ガールについても、こうした文脈でとらえることが可能であるように思われる。

 そもそもファリック・ガールを愛することは、いかなる倒錯の構造を持ちうるか。

 それはおそらく、想像的なものに欲望をさし向けることである。徹底して想像的に閉じていること、それゆえの倒錯性である。ダーガーこそは生涯をかけて自らの想像的なるものの純粋培養に成功した希有の例であろう。幻視や変容した知覚、あるいは妄想によって創造した他の多くの「アウトサイダー・アーチスト」とはこの点で異なっている。なぜなら彼らは妄想や幻覚という「現実的なもの」との接点を持っているからである。ダーガーにはその接点がない。そして彼の想像的なもののうちには、いたましいナルシシズムが影を落としている。

 「少女」の実体ははかない。「少女」を支えるのは多分にファンタジーの力である。してみるとファリック・ガールはいわばファンタジーの自乗である。彼女らは自乗であるがゆえに、その奇妙な想像的実体性を獲得するのかもしれない。

 欲望が想像的なもののなかでナルシシスティックなループを描く。そのとき欲望に対象はあるが、充足はけっして得られることはない。このとき真の充足に替わって顕現する徴候的イコンこそがファリック・ガールではないだろうか。

 だからヘンリー・ダーガーを、その物語を単純に愛好すべきではない。彼をめぐる謎は、こうしたループ状の欲望についての、さらにはナルシシズムをめぐる謎である。そしてファリック・ガールと恋に落ちるものは、自らのナルシシズムと倒錯性に否応なしに向き合うことになるのだから。