「被害者」「加害者」「患者」のいずれでもありうる「あなた」自身のために

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

そして殺人者は野に放たれる (新潮文庫)

 私は、司法精神医学について専門家を自称できる人間ではありません。なにしろ本書でもたびたび名前の挙がる、精神鑑定の権威・小田晋氏の研究室に在籍した過去があるとはいえ、自分が中心となってかかわった精神鑑定例はわずか一例しかないのです。だからこの解説を書くために、関連書籍や論文をいくつも読みました。そして、精神障害犯罪者に関する議論の難しさに、あらためて驚かされました。


 そもそも法学と医学とは、その背景となる思想からしてまったく異質な学問です。簡単に言えば「判決」は常に結論であり、事実と同じ重みを持ちます。しかし医学的な「診断」は、常に治療と予防のための一時的な仮説でしかありえず、それゆえ常に他の可能性、すなわち「鑑別診断」が問題となるのです。これほど異質な思想が交差する司法精神医学の領域において、その双方をバランス良く見通すことのできるような「専門家」がほとんどいません。この点がまず、議論の見通しを悪くしています。
 現に私自身、精神医学については専門家のはしくれではありますが、司法に関してはまったくの門外漢です。本書のテーマに即して言えば、刑法三九条への固執の一因である「責任主義」というものが、どれほど刑法の根幹をなす「思想」であるかなど、まったく知らなかったといううかつさです。
 この点では日垣さんにしても、医師でもなければ法律の専門家でもありません。しかし東北大学の法学部を卒業した氏は、対象への徹底した取材ぶりでつとに知られています。本書について言えば、日垣さんは司法精神医学関連の資料はもちろんのこと、なんと中山書店の発行する『現代精神医学大系』全巻を読破したといいます。『現代精神医学大系』というのは、全三十巻以上にも及ぶ、わが国の精神医学における究極の「レファ本」です。実を言うと、これを読破したという精神科医に、私は今まで会ったことがありません。もちろん専門書の読破が専門性を保証するとは限りませんが、日垣さんの見解にかいま見える、時に常識すらも凌駕する過激なバランス感覚は、まさにこうした常軌を逸した努力のうえに成立しているのかもしれません。
 しかし、公正で正確なだけの本は、おうおうにして退屈なものです。本書の「あとがき」に明記されているように、日垣さん自身が犯罪の被害者遺族であり、身内に精神障害者を持つという立場にあります。この点への感情移入もあって、本書にはいくぶん扇情的に、あるいは勧善懲悪的に読めるところもないではない。あるいはこの点にだけは、一抹の抵抗を覚える読者もいることでしょう。
 しかし、まさにこのテクニックこそが、本書のリーダビリティをきわめて高いものにしていることはけっして無視するわけにはいきません。啓蒙と告発のための本が、時には厳密な中立性を崩してまで、「読まれる」ための物語性と、(あえて言えば)エンターテインメント性を取り込むことを非難すべきではない。
 特筆すべきはむしろ、本書がさしあたり「公正さ」の感覚のみを重視して、人権派を含む特定の政治的主張に偏していないという点です。このようにイデオロギーに曇らされていないという点もまた、本書を類書の中でも抜きんでた存在にしているのです。


 さて、ここからはいささか、気の重い話題になります。
 本書で日垣さんは実例をいくつも挙げて、杜撰きわまりない精神鑑定の現場を告発していきます。わが国では、被害者やその遺族の心情を無視して、ただ形式的に犯罪者を免責するだけの精神鑑定が乱発されてきました。加害者の人権保護の美名のもと、被害者側にはなんの情報も与えられず、加害者からは裁判を受ける権利を奪い、代わりにきわめていい加減な処遇がなされています。
 加えて当の精神鑑定なるものが、あまりにも信頼性に欠けるとしたらどうでしょう。本書でしばしば槍玉に挙げられる福島章氏をはじめとして、私が師事しあるいは面識もある何人もの精神科医が、日垣さんの苛烈な筆致で徹底批判されるさまは、読んでいていささか辛いところもあります。しかし本書で批判されているような事実が現にある以上、私は精神医学のためになんら弁明することができません。
 たとえば連続幼女殺人事件の宮崎勤被告の精神鑑定は、鑑定がいかにあてにならないものであるかを世間的に印象づけました。斯界の権威中の権威ともくされる複数の精神科医が鑑定人として関わったにもかかわらず、鑑定結果は「人格障害」、「多重人格(解離性同一性障害)」、「統合失調症」の三通りに分かれてしまったのです。多くの人々はこの結果から、精神医学がいかにあてにならないものかを知って、愕然としたのではないでしょうか。
 精神鑑定の経験者としてあえて断言しますが、犯行当時の心神喪失状態を正確に判定するための、いかなる確実な手段も存在しません。加えて精神鑑定には次に述べるような一種のパラドックスが存在します。
 犯行当時の精神状態を正確に把握するためには、犯行後、可及的すみやかに鑑定がなされる必要があります(中井久夫氏はこれを「エビのおどり食い」と表現しています)。
 しかし正確な鑑定のためには、膨大な時間がかかります。まず器質性疾患の存在をチェックするために、神経学的検査から脳波、MRI、あるいは必要に応じて血中ホルモン濃度や染色体のチェックといった身体的諸検査が必要になります。加えて知能を含む心理学的評価のためのテストバッテリーを施行し、生育歴や現病歴、犯行時の心理を知るため、長時間の面接を繰り返し行う必要があるのです。
 つまり理想の鑑定とは、犯行後すみやかに、じっくりと時間を掛けてなされる必要がある、という矛盾を抱えてしまうのです。
 しかし鑑定のために長期間勾留されることは、必ずしも拘禁反応に限らない病像の変化を招いてしまいます(勾留されるうちに「治ってしまう」事例すらあります)。この点については、宮崎勤あるいは麻原彰晃らが、今どんな精神状態にあるかを考えてみれば十分でしょう。
 ともあれ本書は、こうした精神鑑定の曖昧さを、それこそ身も蓋もなく暴露してしまいます。残念ながら本書の議論に、いっさいの経験主義や権威主義を抜きにして、同水準の厳密さで反論できる精神科医はいないでしょう。精神医学が本書の存在を黙殺し続けているのには、おそらくそのような事情があります。なるほど、私のような在野の「野蛮人」に、解説役としてお呼びがかかるわけです。


 議論を難しくする要因はほかにもあります。精神医学内部におけるイデオロギーの対立です。実は精神科医のほとんどは、「常に患者の弁護側に立つ」という倫理観のもと、患者の責任能力を限定する刑法三九条の存在については自明の前提として教育を受けてきています。私自身驚いたことに、三九条が本当に患者のために有益なものなのかどうか、本書を読むまで深く考えたことはありませんでした。
 イデオロギー対立とは、ほぼ「保安処分」の是非に関するものです。精神医学という狭い業界の内部では、一貫してこの問題、すなわち「高い確率で犯罪を犯すことが予想される精神障害者」を予防的に拘禁することが許されるか、という議論が人権派と保守派との間でなされてきました。その結果、三九条の抱える人権上(あるいは治療上)の問題については、ほとんど論じられる機会がありませんでした。
 問題を複雑にする要因としては、医学と法学それぞれの「面子」の問題もあります。
 どういうことでしょうか。まず医療側の「面子」について述べておきましょう。
 そもそも精神科医には「正常」という診断ができません。精神医学が取り扱う主要な疾患のほとんどについて身体的な検査法が存在しない以上、目の前の患者についてただちに「健康」の判断を下し得ないのは当然のことです。さらに言えば、私が依拠する精神分析精神病理学とは、いかなる場所にも病理を見出すための技法であって、これをつきつめれば、すべての人間は多かれ少なかれ病んでいる、というラカン派の断定に至ります。
 「正常」という診断が成立しないということは、精神鑑定の依頼に対してはほとんどの場合、なんらかの異常が見出されることを意味しています。精神科医の面子は、その診断技術における正確さに賭けられているわけで、あくまでも精神科医は自らのプライドと善意(患者の人権!)から犯罪者の異常性を無理にでも見出し、それを記述するでしょう。本書に引用される春日武彦氏の発言には、そういう背景もあります。
 次は、法曹側の「面子」です。
 日垣さんによれば、わが国では、殺人者の約四割もが不起訴になっているという衝撃的な事実があります。ここには、被害者の救済も犯罪者の更生も眼中にないとしか言いようのない、検察官側の事情が深く関与しています。日垣さんもご指摘のこの部分に、私の知り得た範囲で補足しておきましょう。
 犯罪者の責任能力が疑わしい場合、無罪になりそうなケースをあらかじめ除外すべく、「起訴前鑑定」がなされます。起訴前鑑定は、簡易鑑定と嘱託鑑定から構成されます。このうち嘱託鑑定では、検察官は裁判官が発行する鑑定処分許可状を取得しなければならず、正式鑑定に準ずるものと一応はとらえられます。問題となるのは前者、簡易鑑定のほうです。
 これは裁判官の令状を得ずに検察官の判断だけで行われる鑑定であり、なんとわずか数時間、一回限りの診察で一応の鑑定書を作成し提出しなければなりません。通院歴のある被疑者の場合など、この手続きはさらに簡略化されることもあるようです。簡易鑑定の実施については、全面的に検察官の裁量に委ねられるため、鑑定を実施するかどうかの判断や方法、鑑定人の選択過程はきわめて不透明です。
 容疑者を起訴したにもかかわらず無罪になってしまうことを、俗に「検察黒星」と称して、検察官のキャリア上大きな傷となります。容易に想像がつくように、検察官は「黒星」になりそうな容疑者の起訴は、徹底して避けようとします。このため検察官が、措置不要の鑑定結果を下した精神科医を恫喝するような事例もあったと側聞します。さらに極言すれば、検察官の気に入る鑑定結果が出るまでは、いくらでも鑑定を繰り返すことができます。
 検察官が起訴・不起訴を決める権限について有効なチェックシステムが存在しない現行制度下では、こうした制度の濫用が、堂々とまかり通ってしまいます。「簡易鑑定」は、このような構造的な問題を背景に抱えているのです。池田小学校事件のように大きく報道される事件ならともかく、せいぜいベタ記事にしかならないような無名の殺人事件は、そのかなりの部分がこうして処理されていることに、私たちはしっかりと目を向けておくべきでしょう。
 ところで、これまで私が述べてきた困難のかなりの部分は、本書で日垣さんが主張する「三九条二項の削除」と「(保安処分施設ではなく)刑事治療処遇施設の創設」という明快かつ整合性のある折衷案で解決可能です。なにゆえに今まで提出されてこなかったのか、考えてみれば不思議なほどです。その意味で、この画期的提案は一種の「コロンブスの卵」として受けとめられるべきものなのです。


 さて、おしまいに現状をみてみましょう。日垣さんは本書で「日本には、凶悪犯罪者を心神喪失により無罪にする法(刑法三九条一項)はあっても、心神喪失により不起訴あるいは無罪にした凶悪犯罪者を処遇する施設が一つもない」と痛烈に批判しています。このうち後者の批判については、二〇〇三年七月に国会で成立した「心神喪失医療観察法」のもと、今後全国二四ヵ所に指定入院医療機関が設置される予定ではあるようです。
 ただし、地域住民の反対運動などもあって、現在開設されている施設はわずか七ヵ所のみであり、今後しばらくは日垣さんが批判されたような状況が続いていくでしょう。なお医療観察法は実質的な保安処分との内部批判も強く、その有効性についてははなはだ心もとないものです。これは日垣さんの画期的提案からすれば、明らかに後退と言わざるを得ない。将来的に法案の見直しは避けられないでしょう。
 最後に私から、ささやかな修正案を提出して、拙い解説を閉じることにします。
 私個人は、治療によって判断力を回復しうる精神障害者に対しては、刑法三九条を適用すべきではない、と考えており、この点では日垣さんとまったく同意見です。ですからもちろん、薬物中毒や飲酒酩酊時の犯罪は免責されるべきではありません。これは被害者遺族への配慮はもちろん、加害者にとっても、自らがなした罪を自覚することが治癒の過程で欠かせないと考えるからです。余談ながら依存症患者には、刑に服すること自体が治療的でもあるはずです。
 それゆえ精神障害が疑われるすべての加害者に対しては、その診断にいたずらに時間をかけるよりも、勾留と同時に治療を開始することが望ましいと考えます。判断力の回復を早め、責任能力を回復させて刑に服してもらうためです。現在の精神鑑定には治療的要素はありませんが、実は治療への反応も診断の有力な根拠となります。その意味で私は「治療的鑑定」があってよいとする立場を取ります。
 しかし一方で、重度の精神発達遅滞や、慢性化し欠陥状態(きわめて治療困難な末期的状態)となったような精神病の患者もいます。彼らが犯罪を犯す可能性は低いのですが、判断力の回復が不可能であると考えられる犯罪者については三九条を適用して罪を免除し、かわりに後見人をつけるなどして権利にも一定の制約を加えることが「公正な判断」ではないかと考えます。精神科医なりの「公正さ」というのは、どうにも腰砕けではありますね。日垣さんの感想はいかがでしょうか。



日垣隆『そして殺人者は野に放たれる』解説(新潮文庫