「関係の化学としての文学」新潮社

2年越しで雑誌「新潮」に掲載された渾身の連載に、さらに大幅な加筆修正を加えました。「関係の化学」という画期的な発見もさることながら、各章ごとに章の内容をまとめた{要約すると}を追加、加えて東浩紀氏推薦、と売れる要素満載の一作です。

 以下、「あとがき」より抜粋。

 私はときおり夢想する。おそらく一九世紀における「小説」こそが、すべての虚構の王なのではなかったか。ゲーテディケンズバルザック、ブロンテ姉妹、フローベールトルストイドストエフスキーといった巨大な名前たちを思う時、今後いかなる表現者も、個人として彼らほど人々に愛され、あるいは高く評価されるということはありそうにない。映画にはじまる視覚表現の環境的発展が、表現スタイルの多様化を招くと同時に、一世紀をかけて、ゆっくりと「文学」を凋落させていったのではないか。

 おそらく「リアリティ」の八割は「諸感覚の階層的な同期」によって与えることができる。
 私の考えでは「まんが・アニメ的リアリズム」の構成成分のほとんどが、視覚と聴覚の階層的な同期によって成り立っている。このとき、「描かれたキャラクターが現実の人間に似ているかどうか」は、実はどうでもいい。人の形をしている必要すらない。
 重要なことは、絵の運動であり、これに音声、せりふ、擬音、その他の諸記号がシンクロして描かれることである。階層的に区分された感覚ブロックをシンクロさせれば、そこには必ず、一定量の「リアリティ」が発生するだろう(ちなみに、ゴダールのような「シンクロはずし」も、この原理をふまえなければ成立しない)。
 このシンクロ構造の環境を調整しつつ、なんらかの形で「能動感」のブロックを追加したものが、東浩紀氏による「ゲーム的リアリズム」である。「環境管理型権力」のアイディアを深めつつある東氏が、批評においても「環境」に注目した「構造分析」を試みるのは、その意味で自然なことなのだ。
 おそらくここで、「文学」に環境以上のものと求められるかどうかが、議論の分かれ目となるだろう。
 もし小説が、完全にサブカルチャー化してしまったと考えるなら、この議論にはもう結論が出されている。リアリズムのスタイルを他ジャンルに依存するほかなくなった「文学」は、とっくに死に絶えている。すでに脳死した文学を「文芸誌」という延命装置が何とか持たせているに過ぎない、というわけだ。
 しかし私は、そうした判定にくみしない。ジャンルの多様性は、むしろ「文学にしかできないこと」の位置をあきらかにしてくれるだろう。それこそが、本書で私が追求したテーマである「関係の化学」にほかならない。ただちに異論が出されるだろう。映画にも、漫画にも、関係の化学はあるはずだ。現にこの本でも、映画や漫画への言及は少なくないではないか。
 そうした異論に対しては、私は次のように応えるだろう。
 なるほど、確かに映画や漫画にも、関係の化学、すなわち関係平面の作動は起こりうるだろう。しかし、その作動は小説に比べて、はるかに多くの制約を被ってしまう。それは制作システムによる制約であると同時に、もっと本質的な違いによるものだ。
 関係の化学の作動を支えているのは、シニフィアンの運動である。もしそうであるなら、言語を直接の素材とする小説が、もっとも化学反応を呼び起こしやすいのも当然だ。おそらくここで逆転が生じる。映画や漫画は、こと関係平面の作動については、小説的リアリズムに依存せざるを得なくなる。例えば武富健治の漫画作品『鈴木先生』(双葉社)は、そのような意味で「文学的」な作品なのである。
 そう、どれほど衰退が叫ばれようと、小説が読まれ続けるのは、ひとつにはこうした「関係の化学」の享楽ゆえである。他ジャンルの追随を許さない関係性のリアリティゆえに、私はインフラとしての「文学」制度を擁護する。本書はそのためのマニフェストにして、いまだ探求の端緒に過ぎない。