「キル」ための反復運動

 
 演劇的リアル
 熱心な観劇者ではないが、舞台の善し悪しは、まず写真で判定することにしている。公演のスナップ・ショットが絵的に優れていれば、それはきっとよい舞台だ。夢の遊眠社の舞台写真は、初期のものから高い品質を誇っていた。同時期の、他の劇団のものと比較すれば、その質的差異はまさしく一目瞭然である。野田の舞台は、その一瞬の画面にも、人物たちの関係性が重層的に濃縮されているのがわかる。おそらく舞台写真の品質は、こうした関係性を写し取れるか否かによって決定づけられているに違いない。
 私はかねがね、さまざまなメディア特性ごとにリアリティの文法があるに違いないと踏んでいた。映画、アニメ、漫画、小説、そして演劇と、表現ジャンルごとに、それぞれに固有のリアリティがある。現代において、否、古来から優れた表現者とは、こうしたメディア特性という制約を十分に知り尽くし、それを巧みに使いこなすものたちを指すのではなかったか。言うまでもなく演劇には、演劇固有のリアルがあり、野田秀樹はその効果を誰よりも知り尽くしている。
 演劇のリアルとはなにか。そこではメディア・テクノロジーの利用が最小限にとどめられ、生身の俳優の肉体、肉声、運動の現前性が、最大限に利用される。こうした現前性こそが、演劇のリアルを担保するものなのだろうか。もちろん、そうではない。義理で観に行った素人芝居を考えてみよう。そこでは現前性こそが、演劇のリアルを阻害する最大の要因となるのではないか。舞台上の知人の稚拙な演技は、演劇という虚構空間の論理を常に破壊するだろう。望ましい演劇の空間においては、現前性は常に虚構性の側へと反転し、虚構性は常に現前性の側にあふれ出すという循環がなくてはならない。私はこのことを、同業の先輩にして東京乾電池の作家でもある山登敬之の舞台から学んだ。
 さらには、虚構の質ということも問題にされなければならない。野田秀樹の演劇は、戯曲作品として読む場合と、舞台上で上演される場合との落差が格段に大きい。もちろん後者のほうが遙かに感動的で面白いのだが、この質的な乖離ぶりこそが、野田作品の演劇的リアルを支える当のものであることは間違いない。高速で展開する言葉遊び、それを支える誇張された身体運動、そして表情。こうした表現は、戯曲には書き込めないし、映画や漫画でやってもパロディにしかならないだろう。野田的な舞台の一方で、平田オリザらの「静かな演劇」が支持された経緯も知らないではない。しかし両者には共通項がある。それは、ある種の幻想を伝達するには、演劇という媒介を用いるほかはない、という事実である。
 それでは、それはいかなる幻想か。あらゆることが許されるはずの舞台上で、起こってはならないことが一つだけあるとすれば、それは「沈黙」であり「独語」である。ここで太田省吾「水の駅」の例などを持ち出して反駁することは全く無効なので、私見ではあれほど饒舌な舞台もまたとないのだ。私が言わんとする沈黙とは、単に音声が途絶える瞬間ではない。それは表出の沈黙なのであり、舞台と客席のコミュニケーションが途絶する瞬間を意味している。
 そう、それはカフカ、リンチ、吉田戦車らに許されてきた特権的沈黙であり、さらに言えば、分裂病親和的な沈黙(ルビ:スキゾイド・サイレンス)だ。小説ではあれほど見事に破瓜病的沈黙を描いたベケットですら、「ゴドー」においては神経症的不条理にまで軽症化する。演劇表現は、それがどのような場合にもコミュニカティブな表出性を担わざるを得ない。その結果、スキゾイド・サイレンスを描き得ないという宿命を負わされている。あらゆる出来事がコード化され、身体表現として意味の電荷を帯びてしまうということ。それは言うなれば、どこまでもヒステリー的であるほかはないという宿命であり制約だ(私はこのことをほとんど確信しているが、この断定は、ひそかに異論を期するものでもあることも付記しておこう)。
 断念とともにそのヒステリー的制約を受け入れられたもののみが、舞台上にリアルな幻想を紡ぎ出すことができる。舞台の万能を否定することから、表現は出発しなければならない。野田秀樹の舞台は、そうした制約の枠組みを利用して、運動と速度、あるいは換喩的饒舌と論理的逸脱によって、ヒステリー的身体性を内破せんばかりだ。意味と見当識を狂わされながら物語に引きずり込まれ、しかし最終的には神経症の構造に着地するとき、果たして我々は安堵しているのか感動しているのか。それは果たして、スリルの後の弛緩という生理的な仕掛けに還元できるものなのか。



 キルの外部
 さて、「キル」である。
 印象批評は私の任ではないので、ここではあくまでも、物語の構造に注目したい。モンゴルのデザイナーズ・ブランド「蒼き狼」を巡って、さまざまな欲望と関係性が円環的に描かれる。以下、ラストに至るまでのストーリーを記しておくが、野田演劇の、あらかじめあらすじを知っているほうが面白いという性格上、とくにネタバレ等には配慮せずにそのまま書くことにする。
 デザイナーであるイマダの息子テムジン(ジンギスカン)は、不在の父「蒼き狼」の血筋であることを誇りに思っている。イマダを殺したヒツジ・デ・カルダンとの戦いに勝利したテムジンは、シラノ役の結髪(ルビ:けっぱつ)の仲介で、モデルのシルクと結ばれる。連れ去られたシルクを取り戻すべく、テムジンは型紙と羊を捨てて、敵将のバンリを殺し、身ごもったシルクを連れ戻す。シルクの子の名前はバンリ。シルクは結髪と密通し、再び身ごもる。病弱なバンリは「蒼き狼」ブランドの類似品をつくる偽ブランド「蒼い狼」を征服に、西の国へと一人赴く。いっぽうテムジンは、兵士イマダらにそそのかされて、「蒼い狼」の正体が結髪であると誤解し、結髪を処刑してしまう。やがてテムジンは、「蒼き狼」と「蒼い狼」の鏡像関係に思い至り、それが自分の父親であること、征服欲を断念しない限り、その関係が終わらないことを知る。テムジンは自らのブランドにはさみを入れ、葬り去る。大草原の青空の下、一人のテムジンが眠るように死に、もう一人のテムジンが誕生する。
 これが物語の骨子だが、これに絡むのがロー人形や観光ガイド、旅人ポロロンといった「外部」の住人たちである。彼らはテムジンらとは位相の異なる世界に住んでおり、お互いがお互いの外部として区分されている。ここで重要なのは、それぞれの世界が、互いに無関係なのではなく、むしろ互いに根拠付けあう関係におかれている点だ。
 「外部」の住人たちを脅かすのは、ひょっとしたら自分たちが、ロー人形に過ぎないのではないかという懐疑だ。そして事実、彼らの一部はテムジンらの世界においてはロー人形のマネキンなのである。いっぽう、テムジンの住む世界には、「外部」にその出自を持つものが多い。とりわけシルクとバンリは、ほんらいは「外部」の人間だった。テムジンの不在の父も、あるいは外部の人間なのかもしれない。ようするに、テムジンの欲望である世界に制服を着せること=世界を征服することへの情熱を支えるものは、みずからの血筋である「蒼き狼」への憧れであり、その世界は中心に大きな空虚ないし欠損をかかえることになる。
 このような外部と欲望との関係性が、本作品の神経症的構造を際だったものにする。このとき、外部世界の存在の手がかりを与えてくれるのは言葉だ。ロー人形たちは、しゃべり言葉の語尾に「〜ろう」がくっつき始めたら、それは彼ら自身の存在の危機である。危機を教えるのもまた、外部に根ざした言葉の断片であるということ。空虚の中心を覆うようにして敷き詰められる言葉。それは、本当の答えをもたらすかわりに、何度でも反復回帰しようとする。そう、誰もけっして「本物の外部」には至り得ず、ただ言葉の反復運動だけが、徴候的に外部を指し示す。
 セリフの中に無造作にばらまかれる現代的アイテム、「転校生」「大リーグボール」「ゲームセンター」「東スポ」などの単語は、およそ外部の徴候たりえず、むしろ物語空間の内面性を補強するものだ。メタ演劇のほうがナルシシズムの度合いが高いように、直接的に書き込まれた外部は、むしろ幻想性を補強する。野田はもちろん、この点についても自覚的だ。彼はそんなもので、演劇空間の外部を指し示すことができると夢想するほど愚かではない。むしろ野田の戦略は、言葉の換喩的な反復にこそ、外部性が宿るという信念の上で展開されているようにみえる。それは物語中で言えば、「羊−絹−麻」という系列がそうであり、キル−着る−斬る−生きる、といった駄洒落の展開にも該当するだろう。とりわけ野田の駄洒落において顕著なのは、それが笑いに奉仕するのではなく、言葉の換喩的な連鎖の中に、何か本質的なものを封じ込めるという機能を担わされていることではなかったか。



 中心気質性
 野田演劇のもう一つの特質は、その中心気質的な説話構造である。安永浩によって命名された中心気質とは、てんかん患者などに多く見られるような、一種の健全な幼児性や天真爛漫さなどを指す。私がかつて、西原理恵子の漫画を分析した際に述べたように、中心気質的な表現とは、近景における喜劇、遠景における悲劇、とその最大の特徴としている。言い換えるなら「おもしろうてやがて悲しき」世界である。野田秀樹において顕著なのは、その文章表現や語り口などを見る限りでは、彼は完全に神経症圏内の天才であって、こうした中心気質性とはおよそ無縁の表現者であるという点だ。西原らのような、気質と表現形式が、それこそ器質的レヴェルで一致する表現者とは異なり、野田秀樹はかなり意識的にこの形式を採用しているとおぼしい。
 誰もが知るとおり、野田演劇はその過剰な喜劇性に満ちた細部によって一気に観客を魅了する。めまぐるしく展開する物語の速度に巻き込み、観客がやがて着地するのは、意外にも悲劇的な結末である。「キル」の結末におけるテムジンの死は、その後に誕生の希望が託されていることも含めて、悲劇的と言うことができる。ここで私が言うところの「悲劇」とは、壮大な感情表現が個人的な形態をとって表出される一切の形式を指すからだ。ここにこそ、野田演劇のもたらす「感動」の一つの源泉があるように思われる。
 駄洒落が本質をはらみつつ連鎖し、羊-絹-麻の連鎖が物語の舞台を回す。真人バンリはテムジンの息子へ、テムジンの父イマダは、テムジンの配下・兵士イマダに転移する。これらシニフィアンの自動装置(ルビ:アウトマトン)が指し示すのは、あらゆる場所の外部にある、誰のものでもない人類の運命(ルビ:テュケー)にほかならない。かくして中心気質的な悲劇は、ヒステリー者の崇高な反復に彩られた、古典劇の領域へと回帰を遂げるのだ。(斎藤環


ユリイカ2001/06 臨時増刊 「特集 野田秀樹」所収