ネット文化と「ひきこもり」

 最近、若い世代を中心に、インターネット上の掲示板などで知り合ったもの同士による心中事件があいついでいます。発端となるものが自殺系サイトなどの掲示板で一緒に死んでくれる相手を募集し、密閉した部屋や車などの中で練炭を燃やし、一酸化炭素中毒によって自殺に企図するというケースが多いようです。ニュースで報じられた、ある亡くなった男性の「独りだと寂しい」という掲示板の書き込みが印象的でした。なぜ若者たちは、集団で死のうとするのでしょうか。同じ悩みを持つ仲間同士が出会い、寂しさが解消されたら、むしろともに生きようという意志が生まれてこないのはなぜでしょうか。
 ネットがらみの自殺は、もちろんこれらが初めてというわけではありません。ただ、かつて大きく報道された主立った事件は、いずれも自殺願望を持つ人に毒物を送りつけるという形で起こりました。しかし、これらの事件には、毒物を持つことでいつでも死ねるという気持ちが生まれ、むしろ自殺を抑止しようとして起こった悲劇でもありました。
 最近のネット心中における死は、あまりにも淡々とした印象を受けます。かつて「情死」などとも呼ばれた心中という行為は、道ならぬ恋の果てに、あるいはさまざまに困難な状況に追いつめられてなされるドラマティックな死でもありました。しかしいま、自殺を志願する若者たちは、さまざまな自傷自殺系のサイトにつどいます。一人では死に至ることが出来ない弱々しい動機を持ち寄って、まるで動機を足し算するようになされるネット心中。みんなに共有されることによって、死はますます日常的なものとなりつつあるかのようです。
 2002年3月に発表された厚生労働省の調査報告「自殺と防止対策の実態に関する研究」によれば、自殺に関連する言葉を含むサイトを検索したところ、関連ページは2002年の時点で13万ページ以上あり、1年前の調査結果と比較しても、その数は飛躍的に増加していました。このうち厳密な意味での自殺関連サイトは13サイトあり、うち防止を主目的とするのは4つだけだったといいます。残りの9サイトでは自殺手段や目撃情報などがあり、掲示板では自殺を促すような書き込みもみられました。
 いま私が診療にあたっている若者たちも、こうしたサイトからさまざまな情報を得ています。かつて情報源は1993年に発行されて130万部のベストセラーになった鶴見済の「完全自殺マニュアル」が圧倒的でした。しかし90年代後半からはインターネットの普及とともに、さまざまな自殺関連のホームページや電子掲示板が急増し、こちらが主流になりつつあるのです。治療者としての私は、こうした傾向を憂うべきものとしてとらえずにはいられません。しかし、規制や罰則を厳しくしたとして、このような傾向の対策となりうるものなのでしょうか。

 2003年2月22日に『読売新聞』が発表した「全国青少年アンケート調査」の結果をみますと、改めて今の若い世代特有の絶望の深さを知らされる思いがします。これは読売新聞社が中学生以上の未成年者5000人を対象に実施したものです。回答の実に75%が「日本の将来は暗い」と考え、同じく75%が努力しても成功するとは限らないとしています。外国からの侵略に対しては、「逃げる」が44%で最多、「降参する」も12%でした。しかし一方で、「親の老後の面倒はみるべき」との回答は82%と高くなっています。また、みずからの将来については、出世志向よりも「好きな仕事(69%)」や「幸せな家庭(62%)」を重視し、経済的にも「ほどほどに暮らせればいい(49%)」と考える若者たちが大多数を占めています。この結果からは、今の若者たちが絶望のあまり内向化、保守化し、さらには無気力化しつつあるようにも思えてきます。
 若い世代が無気力さを帯びつつあることが指摘されはじめたのは、むろん今にはじまったことではありません。すでに全共闘世代以降、70年代において若い世代の「三無主義」が指摘され、大学生のスチューデント・アパシーが新たな病理として紹介されていました。「シラケ世代」などという流行語も当時以来のものです。そこから現在の「ひきこもり」に至るまで、意匠こそ違え、ほぼ一貫して若者の無気力ぶりは旧世代が慨嘆する特性であり続けてきました。しかし、この世代の無気力さには、まだシニカルな形で社会にコミットしようと言う、屈折した意欲がありました。今の若い世代は、そうしたシニシズムすら失って、いっそう素朴な形で社会に反応する傾向が指摘されています。哲学者の東浩紀は、こうした傾向を、ポストモダンにおける動物化と呼びました。今や動物化した若者たちは、素朴に絶望し、絶望のままに死を選びつつあるのでしょうか。
 ある大手企業に勤務する知人によれば、最近の新入社員は、なにかが出来ないことを堂々と宣言するのだといいます。「その仕事は私の能力では無理です!」などと、あっけらかんと言い放つというのです。まるで「自信がないこと」にかけては誰よりも自信があるとでもいうような、「確固たる自信のなさ」とでも言うべき態度が蔓延しつつあります。いまや多くの若者達は、学習や修練によって自分が成長し、変化していくという期待すら持ち得ないかのようです。
 考えてみれば、私自身がそのような若者たちを数多くみてきたのでした。そう、「ひきこもり」の若者たちです。不登校などからはじまって、自分の部屋に閉じこもり、成人してからもほとんど部屋から出ようとしない若者達の数が、いまや百万人以上に及ぶといわれています。私は彼らとつきあうなかで、「ひきこもりたくないのにひきこもってしまう」という自意識の悪循環と、それをいっそう助長するこじれた家族関係を指摘してきました。そして、こうした悪循環さえ解消できれば、ひきこもり状態は改善に向かうはずでした。しかし、多種多様な「ひきこもり」の中には、ひきこもること以外の生活が考えられないという意味で、確信的にひきこもっている若者たちも少なからず存在します。彼らにとっては、自尊心やアイデンティティをめぐる葛藤など、一種の「贅沢品」のようなものです。彼らもまた「自分にはひきこもること以外の選択肢はない」という判断については消極的な自信があります。そして同時に、彼らは治療や支援によって自分が変わるという可能性を、みじんも信じていません。
 こうした変化の原因を、メディアの普及にもとめるのは、いささか性急に過ぎるかも知れません。しかし、インターネットに象徴される情報化された社会においては、間違いなく「体験の質」そのものが変化していくでしょう。そこでは、すべての経験が情報として先取りされてしまいます。現にひきこもりの若者たちは、社会や世間の情報だけは豊富に手に入れており、それにもかかわらず、いや、それゆえにこそ動くことが出来ないのです。また、ネット上の出会いにおいては、生身の出会いに先立って、相手の詳細なデータだけが伝えられてしまいます。経験と出会いの情報化は、はたして何をもたらすのでしょうか。経験や出会いにひそんでいるはずの、若者達の変化や成長の糧となるような核心部分が、情報化によってそこなわれてしまうと考えるのは、はたして杞憂なのでしょうか。私自身、日常においては、インターネットの圧倒的な高速性、透明性を享受しています。しかし、だからこそ、生身であるほかはない私たちが抱えている、ささやかな不透明さの価値を忘れるべきではないのかもしれません。