米本和広著「カルトの子 心を盗まれた家族」書評

 私が米本和広氏と最初に面識を得たのは、一九九六年七月、当時氏が精力的に取り組んでいたヤマギシズム取材へ精神科医として協力したことがきっかけだった。私は本来、思春期青年期の「ひきこもり」問題などを専門とする精神科医であり、カルト問題は全くの門外漢だった。しかしその後、まるで米本氏の熱意に感染したかのように、カルトがらみの取材や執筆が増えた。

 米本氏による「洗脳の楽園」は、ヤマギシ実顕地への潜入ルポや氏自身が体験した「特講」の胸の悪くなるほど詳細な記述も相まって、きわめて衝撃的な告発本となっている。本書の出現と、これに続く一連の米本氏の活動が、ヤマギシ会を事実上崩壊せしめたと言っても過言ではない。現代において言論がこれほどの有効性を持ちうることに、私はおおいに勇気づけられたものだ。

 前置きが長くなったが、本書はある意味で「洗脳の楽園」以上に衝撃的な問題提起をはらむ報告である。オウム真理教ものみの塔統一教会幸福会ヤマギシ会という、近年注目された4つのカルト集団(もはやこの断定に一切の留保は無用であろう)が取り上げられる。焦点は子供たちだ。カルト集団の病理が、いかに子供たちの生をいびつなものに変えてしまうことか。多くの事例に基づきカルトの子供たちの「その後」に迫る米本氏の記述は、凡百の反カルト論を越えて、直接に私たちを説得せずにはおかない。

 例えば、オウムの子供たち。九五年の四月から五月にかけて教団施設に強制捜査が入り、このとき児童相談所が一時保護した子供たちは一〇八人にのぼった。毒ガス攻撃をおそれて外出を禁じられ、きわめて不潔な環境下、子供たちは透きとおるような色の白い子の集団と化していた。そんな状況でも教義は彼らを呪縛する。保護された子供は「ここは現世?」と弱々しく質問し、頭を撫でようとした職員の手は「触るな!だめだ」と払いのけられた。

 オウム食と愛情遮断症候群による極端な発育不良。着替えも入浴の仕方も知らず、集団行動もとれない野生児のような子供たち。噛みつきやチックなど、愛着障害による症状に苦しみつつも、彼らが「現世」の魅力によって解放されていく過程は感動的だ。

 こんな極端な状況は、いくらなんでもオウムのような特殊な集団だけだろうとお考えだろうか。もちろんそうでなはい。実質的にはカソリック信者数を上回るというカルト集団・エホバの証人においては、子供への体罰が公然と認められ折檻死事件も起きている。ここでも子供たちは信者である親の愛を得るべく、きわめて大きな犠牲を払わされる。母親に連れられての伝道訪問や、クラスメートの前で立てる「証」が、いかに子供の心を傷つけることか。信仰をめぐって家族はしばしば激しく対立し、ときに崩壊する。

 実質的に世間から隔離された環境で育った子供は、教団を抜けたとき自らの一般常識のなさに愕然とする。感情や葛藤が子供時代から抑圧され続けたため、成人してからも本当の親密さや楽しさの感覚が持つことができない。そう、カルトは正常な自己愛を破壊し、自己イメージの獲得を著しく困難なものにするのだ。

 本書で取り上げられるカルト集団の中でも、とりわけ組織的かつ集団的に虐待を行っている幸福会ヤマギシ会については、最も多くのページが割かれている。それまでも体罰の噂はあった。しかし昨年、三重県による実態調査が行われるに至って、その驚くべき実態が初めて明らかになったのである。四〇七人のヤマギシの小・中学生を対象にアンケート形式の調査をした結果、実に八〇%以上の子供が世話係に暴行を受けたと回答した。平手打ち、足蹴り、壁に頭を叩きつける、棒で叩く、食事を抜かれ監禁される、裸のまま屋外に放置される……その大半は些細な違反行為への罰である。

 これほどの暴力が可能となる背景には、赤ん坊のうちから我執を摘もうというヤマギシの「教義」もあるだろう。しかし最大の要因は、カルト的なものがもたらす「痛みの欠如」ではないだろうか。他者の痛みを理解できないものは、いとも容易に暴力による支配を試みるだろう。  

 われわれと子供たちを連帯させるもの、それは彼らの痛みに対する共感である。痛みは悪夢を醒ます力を秘めている。いまや私たちは、ここに記された子供たちの痛みを、できるかぎり正確に理解することを試みなければならない。しかし残念ながら、情報はあまりにも不足している。カルトの子供たちに関する研究書が少ないという米本氏の嘆きは、もっと深刻に受け止められるべきだ。オウムの子供たちに関する厚生省の調査は、なぜうやむやに終結しまったのか。ヤマギシを脱会後の子供たちについてはどうなのか。すでに本書によって端緒は開かれた。あとは多くの心ある専門家によって、実証的な調査研究が少しでも前進することを期待するばかりだ。(斎藤環)