……インタビューを終えてみて、彼の存在感の希薄さに、あらためて驚かされる。これはみずからが欲望の主体となるのではなく、ひきこもって人々の欲望を観察することが趣味、という彼自身の嗜好ゆえのものなのだろうか。

 彼は弁明してはいるが、このスレッドはやはり「ネタ」と言うべきものだろう。いうなれば「やらせ」である。しかし、匿名掲示板において、ネタかマジかが、それほど重要な問題なのだろうか。それを判別する基準は、最終的には何一つ与えられない。さらに言えば、インタビューでの彼の告白が真実であるという保証もない。彼は本当は「ひきこもり」だったのかも知れないからだ。匿名掲示板においては、むしろすべてが「ネタ」と考えられなければならない。ここでのコミュニケーションの面白さは、事実とも虚構ともつかない「ネタ」的次元において検討される必要がある。

 彼の試みをみていて、私は昔懐かしい理科実験「ケミカルガーデン」を思い出した。水槽に満たしたケイ酸ナトリウム溶液にさまざまな金属塩を入れると、そこで化学反応が起こってケイ酸塩ができる。詳しい過程は省略するが、その結果金属塩が種になって、色とりどりのケイ酸塩の結晶が、あたかも草木が伸びるように成長していく。投入する金属塩の種類によって、結晶の色や形も変わってくる。

 掲示板に書き込みたいという欲望。それはあたかも、自分の発言を核として、そこに人々の欲望が結晶し、さまざまな色や形のケミカルガーデンが育っていくさまを目撃したい、というものではないだろうか。

 電子メールについては、通常の会話コミュニケーションに時間差や誤配可能性などが加味された形式として、比較的単純な理解が可能である。メーリングリストやチャットまでなら、このアナロジーを延長しつつ理解することも可能だ。しかし、匿名掲示板の奇妙さには、コミュニケーション上の一種の飛躍があるのではないか。

 たしかにそれは、落書き帳の一種ではある。それも便所の落書き的な、下世話な要素を多分に含んでいる。しかし決定的に異なるのは、ある種のスレッドにおいて起こるような、濃密なコミュニケーション反応である。ネタかどうかは問わない。ある種のキャラを設定し、それが呼び覚ます、おそらくは不特定多数の人々の反応を楽しみたいという欲望。あるいは、そのキャラを土台として別のキャラを立て、場の流れをさらってしまうことの快感。私にも覚えがないとは言うまい。

 ここでは明らかに、希薄ながら「転移」が生じている。純粋に文字を媒介とし、文字に感情移入することで転移し、その転移の連鎖が「スレッド」という「コミュニケーションの結晶」を育んでいく。スレッドは新たに投入されるレスの内容によって、ねじまがったり急速に成長したり、たくさんの分岐が生じたりする。その過程自体を楽しみたいという希薄な欲望が、多くの巨大掲示板を支えているのではないだろうか。その意味で、雑誌取材の話題が出た途端に、書き込みが衰弱したというエピソードは示唆的である。この場所は、そうした「現実」からの介入に対して、ひどく脆弱なのだ。

 こうした形式のコミュニケーションは、今後いっそう複雑かつ高機能なものへと発展する可能性を秘めている。そのとき果たして「脆弱さ」も変化するのだろうか。あるいはネット時代の徒花として、過渡的な現象に留まるのだろうか。

 いずれにしても今私は、いますぐ仕事を放りだして「育ちそうなネタ」を書き込みに行きたい、という自分の欲望を何とかしなければならない。