原武史『大正天皇』朝日選書

 元神戸大学教授の精神科医中井久夫氏には「昭和を送る」という、半ば伝説化した論文がある。昭和天皇崩御の直後に書かれ、やや右寄りエスタブリッシュメント向けの雑誌に掲載された。いまだ著作集には収められず幻の論文となっているが、内容を読めば、その理由は想像に難くない。本論は我が国の病跡学史上はじめて、昭和天皇をその対象としたものであるからだ。とりわけ天皇の置かれる特殊な立場と環境を精神医学的に記述して異様な説得力がある。私は本書を、この中井論文を参照枠として興味深く読んだ。  

 本書はこれまでほとんど研究がなされて来なかった大正天皇の生涯に関する、最初の本格的な研究書である。導入では、大正天皇といえばまず連想される「遠眼鏡事件」が検証され、それが真偽の定かではない風説に過ぎないことが示唆される。以後、知的障害を抱えた悲運の天皇というイメージの誤解を解くことが、本書の基調的なトーンをなしている。  

 ここで大正天皇の病歴を推測を交えて記述してみよう(用語は現代のものに変換してある)。明宮(大正天皇)は生後間もなく髄膜炎に罹患し、その後遺症に生涯苦しんだ。後遺症の重篤さを考えるとおそらくウィルス性で、脳炎も伴っていたのではないか。抗生剤のない時代でもあり、漢方治療のみでは十分な治療効果は得られなかったであろう。一〇代はほとんど持病のようになった感冒のほか、気管支カタル、腸カタル、胸膜炎などにしばしば罹患した。

 二〇代は後述するように健康を回復したが、天皇即位後は髄膜炎の後遺症とおぼしい脳器質性障害にもとづく言語障害、歩行障害などが進行した。知能の障害がどの程度であったかは判然としないが、記銘力の減退や一過性ながら幻視の訴えもみられている。裕仁皇太子が摂政となった一九二二年以降は、静養に徹したものの、病状は徐々に進行する。不整脈、浮腫、脳虚血発作などがたびたび見られ、慢性的な発熱が続く。おそらく脳虚血発作は多発性脳梗塞をもたらしていたであろう。一九二六年一二月二五日、「肺炎に伴う心臓麻痺(宮内省発表)」にて死去。四七歳の若さだった。  

 以上は身体医学の側からの所見である。しかし本書を読んで驚かされるのは、その病状がきわめて状況依存的である点だ。つまり環境要因、心理的要因によって病状が大きく影響されていた可能性が高いのである。本書の主題の一つも、実はそこにある。  

 生育歴がまず特殊である。明治天皇は皇后との間に子供が出来ず、側室との間に五人の子が産まれたが、ほとんど生後間もなく死亡している。明宮は、この五人中でただ一人生き残った皇子であり、その病弱ぶりには遺伝的素因も関与していた可能性もある。

 しかし、さらに決定的に思われるのは、明宮が生後すぐに両親のもとから離されて里子に出され、満六歳まで他家で養育されたことだ。この奇妙な慣習は昭和天皇以降改められたが、ボウルビイらも指摘するように、早期幼児期における母子分離は、生涯にわたり病因的な影響をもたらすとされている。それかあらぬか、里子に出されて間もなく、髄膜炎が再発している。学習院に入学してからも病気がちであり、学習もはかどらず結局中退し、個人教育を受けることになったが、詰め込み式の過酷なスケジュールでしばしば健康状態が悪化した。

 この悪循環を変えたのは、新しい朋友に任命された有栖川宮の存在と、九条節子との結婚であった。節子妃との新婚生活はきわめて順調で、明宮二一歳の時、第一子である裕仁親王昭和天皇)が誕生している。三人の皇子に恵まれた明宮一家の仲睦まじさは、それまでの上下関係に変わり親密さを強調した家庭モデルを国民に示したという。  

 有栖川宮の提案により、授業の負担を減らして長期にわたる地方の巡啓を大幅に取り入れるようになってから、明宮の健康状態は目に見えて改善していった。この提案が画期的であったのは、巡啓を教育のための非公式・非政治的な「微行」として行った点にある。現地での過度な歓迎をおさえて随行員数も控えめにした結果、かなり自由度の高い旅行日程が実現したのだ。健常者にとっても過密に思えるスケジュールをこなしつつ、地方の人々と積極的に言葉を交わす天皇。思ったことをそのまま口に出したり、あるいは行動に移したりする天真爛漫さは、巡啓のさいのさまざまなエピソードとして知られる。人力車の進路を勝手に変える。早朝一人で散歩に出かけて周囲を慌てさせる。軍演習の見学を抜け出して突然旧友宅を訪問する…。  

 このように、唐突に予定外の行動に走る多動傾向に加えて、日常において「おちついて一つのことに専心するのを好まれない(ベルツの日記)」注意集中困難ぶりを考慮すると、明宮は現代ならADHD注意欠陥多動性障害)といった「診断」を下されていたかも知れない。もしそうであったなら、有栖川宮の指導方針は、まさに的を射ていた。ADHD児には服薬も有効だが、いっそう重要なのは柔軟でのびやかな療育方針、そして信頼できるパートナーとの親密な関係であるからだ。女官ではなく節子妃が、ほとんど一人で明宮の身辺の世話にあたったことの意義はきわめて大きい。  

 中井論文も指摘するように、天皇という特殊な地位は、幼児期から強い心理的圧力をもたらすだろう。自我形成において重要な、他者との出会いからして尋常なものではない。「いかめしい老人などが自分の前で緊張してかしこまっている」異常な状況のもと、「相手の緊張度に自分の緊張度の高さが合って」いき、身体に緊張が蓄積する。結果として「甲高い声」「ぎこちない動き」などに至る。脳に器質性の問題を抱えていた大正天皇にとって、こうした状況がいかに過酷なものであったかは多言を要さない。  

 そこに束の間の回復をもたらしたものが、やはり地方巡啓における「他者との出会い」であったことは想像に難くない。しばしば一人で散歩に抜け出し、人々にじかに接して言葉を交わそうと試みる天皇。通常の意味での他者が存在しないストレス空間と化した皇室を抜け出し、民衆という「他者」と自由に交流すること。それが大正天皇の器質的に脆弱な自我を支えたのではないか。著者も指摘するとおり、天皇の意表をつく言動は、周囲の本音を引き出すための巧まざる戦略だったのかもしれない。  

 明治天皇崩御に伴い三二歳で践祚して以降、大正天皇の病状は急速に悪化する。巡啓は行幸となり、様式化された歓迎式典と化していく。もはや民衆とじかに交流することなど望むべくもない。他者との自由な出会いは失われた。最も忌み嫌っていた秩序と規律に縛られつつ、連日の激務に追われて天皇はみるみる衰弱する。この過程に心理的・環境的要因を見ないほうが不自然ではないだろうか。  

 自由な意見を表明できないにも関わらず、責任のみが重大であるというこの地位の特殊性は、中井論文が指摘するように、ほとんど「正気であるな」というに等しい局面があるだろう。それゆえ著者の本意ではないかもしれないが、私は本書を一種の告発の書として読まざるを得なかった。それはもはや神話的な悲劇ではなく、システムが個人を押しつぶす近代的な悲劇ではないのか。

 皇太后は昭和に入ってからの二五年間、一日も欠かさずに大正天皇の御影とともに長時間を過ごし続け、その間は一切の面会を拒んだという。その抵抗は何に向けられていたか。著者がいうごとく、世間に定着した大正天皇のイメージに対するものでもあるだろう。しかし同時に、夫の早世をもたらしたシステムに対する妻の抵抗の意志を見て取ることは、果たして不敬に過ぎる邪推であろうか。(斎藤環