「『文学』の精神分析」河出書房新社

「文学」の精神分析

「文学」の精神分析

 ここ10年間あまりに書いた文芸批評系の仕事から厳選しました。
 お勧めは宮沢賢治論、三島由紀夫論あたりでしょうか。あと若気の至りで書いた(1)京極夏彦をdisりついでに日本の精神分析史を学ぼう編とか、(2)京極さんいいヒトだったんで今度は絶賛編という、著者の定見のなさが露呈した貴重な文章も収録。
 
以下目次。


「性愛」と「分裂」―宮沢賢治試論
他者としての「妻」―小島信夫抱擁家族』再読
逆説の同心円―三島由紀夫
超越性と情動の倫理―石原慎太郎『化石の森』
ヤコブの梯子、ジェイコブの路地―中上健次『十九歳のジェイコブ』
リアルで厳密で、すこし寂しい希望を―村上龍『最後の家族』解説
精神分析」の呪縛―『狂骨の夢』批判的読解
京極堂との「会話」『狂骨の夢』再論
唯物論的ラブレター―中井久夫の「文体」
言語の谷間の夢の閾―多和田葉子
残虐記』の二つの謎―桐野夏生を読む
予告篇による二〇世紀―古川日出男
傷つく人形―金原ひとみ
距離と祈り、あるいは世界の多重化に関する覚え書き―米澤穂信
解離、増殖、そして加速せよ―清涼院流水
「キャラ」の戦争
『キャラクターズ』じゃなぜ朝日新聞社を襲うのか―東浩紀桜坂洋の共作

 ※ 表紙の鴻池朋子さんは7月15日からオペラシティで大規模な個展を開催予定です。

とりあえず、遅まきながら…

最近めっきり邦楽は聞いてなかったし、もちろんRCもご無沙汰だった。ところが何を思ったか先月、iTunesで全アルバムを衝動買いしたばかり(持っていたのは全部LP)。まあ単なる偶然だろうけど。あといろいろ、個人的な感慨はゲームラボ(連載を私物化!)に書いた。

しかしいまさら「KING OF ROCK」とか言われると違和感がある。生前ホントにそう呼ばれてたっけ? まあそういうのはYAZAWAとか氷室とかでいいでしょう。

清志郎が天才であることは疑いようもないけれど、結局、誰も彼を継承できなかった。その意味で彼は影響したのではなく解放したのだと思う。だから彼は単独峰にとどまったまま、晩年はおとなしくキャラとして消費されていった。

それにしても…清志郎亡き後、ライブでスキャットを自在にこなせるヴォーカリストは? ディスコミュニケーションをリアルに主題化できる作詞家は? 連休中からずっと考えているが、日本人では彼以外にどうしても思い浮かばない。

彼の歌は情景的であると言うけれど、まったく同意できない。すくなくとも「描写的」でないことは確かだ。洗練された逆説とダブルミーニングに満ちた彼の詞は、意外なほどメタ視点が多くて単純な風景が浮かばない。

そもそも彼にとっての「ロックバンド」や「おいらのポンコツ」は、ビーチ・ボーイズの「サーフィン」みたいなものだ。

むしろ特筆すべき点は、彼の歌を聞いたときの「自分の情景」が一瞬でよみがえるということ。いわゆるフラッシュバルブ記憶。

受験の合格通知が届いて真っ先にしたことは、「雨上がり〜」を大音量で鳴らすことだった。つらい解剖実習は「BLUE」を聴いて乗り切った。はじめて「シングルマン」のLPを見つけた時の記憶は、捜し当てた店の名前から一緒にいた友人の声(「これ斎藤が言ってた曲じゃない?」)まで鮮明に覚えている。ラジオでたまたま聴いた「甲州街道は〜」に衝撃をうけてバンド名もわからないまま探していたのだ。ネットがなくて本当によかった!

病跡学的に考えるなら、清志郎古今亭志ん生、浮谷東次郎、石原慎太郎山田かまち北野武に連なる、中心気質者の系譜における天才だった(山田と尾崎を混同している人が時々いるが、この二人に共通しているのは若いのに死んだってことくらい)。

その生を特徴づけるのは、近景における喜劇性と、遠景における悲劇性。生の歓びに満ちた祝祭空間に、ふと死の衝動がよぎる。時に彼らは「限りなく優しい人でなし」にみえる。しかし彼らのかいま見せる含羞と愛嬌は、日本人に最も愛されるタイプのそれだ。ついでに言えば絵の才能も、彼らの多くに共通する。

ところで、私は以下のことをずっと確信しているのだが、これは事実なのだろうか。

  • 清志郎のステージアクトは、たとえば漫画における「ロックバンド」のステレオタイプを決定づけたが、それはたぶん80年代前半まで。その後はBOOWYからGLAYに至る、一種の様式美が席巻して現代に至る。
  • 同じ意味で日本人に「イエー!」なる歓声をポピュラーなものにした最大の功労者(?)が清志郎ではないか。高島忠夫とは使用法が異なる、と思う、たぶん。


それでは良い旅を。あなたのゆく新しい道にも、数え切れない歌の断片が散らばっていますように。あなたの声がすべての星々を震撼させますように。さようなら清志郎
(参考:http://dw.diamond.ne.jp/yukoku_hodan/200502/

だいぶ前になりますが、茂木健一郎氏との往復書簡については、双風舎から終結宣言が出されました。返信を待ち続けている間に、2度ほど対談の申し入れがあったことをここに暴露いたします。そういった所作もふくめて、まあ茂木さんは「そういう人」なんだなあということが良くわかりましたので、個人的には思い残すことはありません。以後私が積極的に茂木批判を展開することはありませんが、コメントを求められればつい往復書簡をネタにしてしまう可能性はあります。ぜひ生暖かい目で見守っていてください。

「関係の化学としての文学」新潮社

2年越しで雑誌「新潮」に掲載された渾身の連載に、さらに大幅な加筆修正を加えました。「関係の化学」という画期的な発見もさることながら、各章ごとに章の内容をまとめた{要約すると}を追加、加えて東浩紀氏推薦、と売れる要素満載の一作です。

 以下、「あとがき」より抜粋。

 私はときおり夢想する。おそらく一九世紀における「小説」こそが、すべての虚構の王なのではなかったか。ゲーテディケンズバルザック、ブロンテ姉妹、フローベールトルストイドストエフスキーといった巨大な名前たちを思う時、今後いかなる表現者も、個人として彼らほど人々に愛され、あるいは高く評価されるということはありそうにない。映画にはじまる視覚表現の環境的発展が、表現スタイルの多様化を招くと同時に、一世紀をかけて、ゆっくりと「文学」を凋落させていったのではないか。

 おそらく「リアリティ」の八割は「諸感覚の階層的な同期」によって与えることができる。
 私の考えでは「まんが・アニメ的リアリズム」の構成成分のほとんどが、視覚と聴覚の階層的な同期によって成り立っている。このとき、「描かれたキャラクターが現実の人間に似ているかどうか」は、実はどうでもいい。人の形をしている必要すらない。
 重要なことは、絵の運動であり、これに音声、せりふ、擬音、その他の諸記号がシンクロして描かれることである。階層的に区分された感覚ブロックをシンクロさせれば、そこには必ず、一定量の「リアリティ」が発生するだろう(ちなみに、ゴダールのような「シンクロはずし」も、この原理をふまえなければ成立しない)。
 このシンクロ構造の環境を調整しつつ、なんらかの形で「能動感」のブロックを追加したものが、東浩紀氏による「ゲーム的リアリズム」である。「環境管理型権力」のアイディアを深めつつある東氏が、批評においても「環境」に注目した「構造分析」を試みるのは、その意味で自然なことなのだ。
 おそらくここで、「文学」に環境以上のものと求められるかどうかが、議論の分かれ目となるだろう。
 もし小説が、完全にサブカルチャー化してしまったと考えるなら、この議論にはもう結論が出されている。リアリズムのスタイルを他ジャンルに依存するほかなくなった「文学」は、とっくに死に絶えている。すでに脳死した文学を「文芸誌」という延命装置が何とか持たせているに過ぎない、というわけだ。
 しかし私は、そうした判定にくみしない。ジャンルの多様性は、むしろ「文学にしかできないこと」の位置をあきらかにしてくれるだろう。それこそが、本書で私が追求したテーマである「関係の化学」にほかならない。ただちに異論が出されるだろう。映画にも、漫画にも、関係の化学はあるはずだ。現にこの本でも、映画や漫画への言及は少なくないではないか。
 そうした異論に対しては、私は次のように応えるだろう。
 なるほど、確かに映画や漫画にも、関係の化学、すなわち関係平面の作動は起こりうるだろう。しかし、その作動は小説に比べて、はるかに多くの制約を被ってしまう。それは制作システムによる制約であると同時に、もっと本質的な違いによるものだ。
 関係の化学の作動を支えているのは、シニフィアンの運動である。もしそうであるなら、言語を直接の素材とする小説が、もっとも化学反応を呼び起こしやすいのも当然だ。おそらくここで逆転が生じる。映画や漫画は、こと関係平面の作動については、小説的リアリズムに依存せざるを得なくなる。例えば武富健治の漫画作品『鈴木先生』(双葉社)は、そのような意味で「文学的」な作品なのである。
 そう、どれほど衰退が叫ばれようと、小説が読まれ続けるのは、ひとつにはこうした「関係の化学」の享楽ゆえである。他ジャンルの追随を許さない関係性のリアリティゆえに、私はインフラとしての「文学」制度を擁護する。本書はそのためのマニフェストにして、いまだ探求の端緒に過ぎない。

朝日新聞で100アンサーズを担当しています。掲載率は約50%。次回は2月1日掲載の予定です。


●あと何冊か、文庫の解説を担当しました。

狂人三歩手前

狂人三歩手前

 ※中島さんの本は、文庫版がまだamazonに登録がないので、単行本の書影を上げておきます。

紀州 木の国・根の国物語 (角川文庫)

紀州 木の国・根の国物語 (角川文庫)

趣都の誕生―萌える都市アキハバラ (幻冬舎文庫)

趣都の誕生―萌える都市アキハバラ (幻冬舎文庫)

●Voiceのウェブ連載「『虚構』は『現実』である」もはじまりました。
 今回は第2回「あらゆる関係はS−Mである」日本橋ヨヲコ少女ファイト」を取り上げています。


●書評ブログ「書評空間」も更新しました。ようやく書評本数の最下位脱出です。
 今回の本は『発達障害当事者研究―ゆっくりていねいにつながりたい』綾屋 紗月、熊谷 晋一郎(医学書院)

 これは真に驚くべき本です。特に以下のくだり。

音声に手話がついて、『両方を同時に』表されたとき、不思議にも、情報が増えているのに感覚飽和にならず、急速な意味理解へとつながる。

 ここにはあるいは、あの「フレーム問題」を乗り越えるヒントが潜んでいるかもしれません。

●朝日カルチャーセンター・新宿で、荻上チキさんとの対談が予定されています。

WEB時代の公共性 自意識のあり方を考える」

 2009.2.24(火)19:00-20:30 全1回



角田光代さんと母と娘の関係について語り合いました。